(ニュース612号 2000/08/01)


たたかう非暴力

 ―一九六三年・バーミングハム―

 古沢 宣慶

 

 向井孝「情況の中の非暴力直接行動」(編集部注・『反戦インターネット情報』NO.6掲載)を元に、私の考えを述べよ、というのが原稿依頼の趣旨だった。

 向井は、アメリカ人の幼児を殺すという目取真俊のフィクションと、それに「言葉の力を思い起こさせてくれた」という富山一郎の文を転載し、イギリスの女たちの原潜関連施設破壊行動についての記事を紹介した後、非暴力直接行動は「弱者(人民)」の日常の暮らしの中から出てくるものだ、と論じた。

 目取真は、反戦・反基地の闘いが、集会や「お行儀のいいデモ」でしかない沖縄の現状にいらだっている。だからといって、いくらフィクションとはいえ、幼児殺しを肯定することはできない。「言葉の力」など全く感じられない。文学の破滅があるのみだ。

 私は四半世紀にわたって、習志野基地を対象に反自衛隊運動をやっているが、「お行儀のいいデモ」ですらできないでいる。ビラ入れを続けるだけだ。集会やデモを主催する苦労は、モノ書きにはわからないだろう。

 朝日新聞の七月八日の号に、川名紀美「広がれ、平和の包囲網」という記事が載った。六月二十二日から二十五日まで、那覇市で開かれた「国際女性サミット」の報告である。

 「参加者を力づけたのはカリブ海に浮かぶ米自治領プエルトリコのビエケス島での米軍基地撤去運動だ。誤爆事件をきっかけに、島の人々が交代で立ち入り禁止の基地内に入り込んだ。逮捕者が続出し、米軍が音を上げた。『非暴力で市民的不服従を貫いた。それが共感をひろげ住民投票の実現につながった』という報告に拍手がわいた。」

 軍事基地に立ち入り逮捕されるということでは、北富士の「忍草母の会」が先行している。まるで町内会の当番のように、会員が交代で侵入し、逮捕された。

 

 沖縄の伊江島では、「肩から上に手をあげない」という徹底した非暴力で、米軍ミサイルの上陸を拒否した。

 会議の成果に自足することなく、国内の事例を踏まえた上で、沖縄での新たな非暴力闘争が開始されることを願う。

 

 『広辞苑』の初版には、「非暴力」の項がなかった。最新の第五版は、「暴力を用いないこと。特に、暴力を用いることなく抵抗する運動・思想。インドのガンディーが編み出した」と定義している。「非暴力」の三語のうちに「抵抗」の意味が含まれている。私は、向井のように「直接行動」という語にはこだわらない。

 私は次のように定義する。「不正に対する怒りの表明、圧政への抵抗、根本的な社会変革を、暴力によらない多彩な方法で実践すること」である。

 「多彩な方法」や非暴力闘争の事例については、G・シャープ『武器なき民衆の抵抗』(れんが書房)を参照していただきたい。

 

 私は、典型的な非暴力闘争の事例として、一九六三年にバーミングハムでなされた、M・L・キングらによる公民権運動を取り上げたいと思う。それが典型的だと考えるのは、

  1. 非暴力であることが徹底していたこと
  2. 挑発に対するトレーニングがなされたこと
  3. 事前に周到な準備がなされ、入念な計画がたてられていたこと
  4. 獲得目標が明確で、闘争から交渉への移行がスムーズだったこと
  5. 役割分担が明確で、多くの市民がそれぞれの情況と能力に応じて参加できたこと、

である。

 非暴力は、少しばかりの勇気は必要だが、勇者のみの運動ではない。事前の計画と訓練とによって、普通の市民が、初心者であっても、対等な立場で参加することができる。ただし、キングらにとっては当り前のことだろうが、キリスト教信仰とアメリカン・デモクラシーが基盤にあることを忘れてはならない。日本に応用する場合に注意しなければならない点である。

 以下は、キングの『黒人はなぜ待てないか』(みすず書房)によっている。復刊されて店頭に並んでいるから、購読していただきたい。

 

 バーミングハムの闘争は、〈プロジェクト・C〉と呼ぶ、一連の書類作成から始まった。キングらは三日にわたって立案のための会議をもち、キャンペインの日程表を作り、予想される偶発的な事件について検討した。前の闘争の分析と反省から、今回はどれか一つの局面に闘争を集中することにした。

 具体的な目的は、商人たちに被害を負わせ、そのことによって人種差別撤廃を実現することである。日取りの決定は慎重に行なわれた。

 新たにデモに参加する者に、非暴力行動について研修会をもうけた。市街の地理を調べ、ピケを張る店、市役所、郵便局などを書き込んだ図面を作成した。それぞれの店の、食堂の様子、出入口、店内の椅子やテーブルの数まで調べあげた。それによって送り込むデモ隊の人数をきめた。さらに、第二案まで準備した。

 アメリカ全土に計画を告知し、支持の拡大につとめた。ハリー・ベラフォンテの大きな支援が語られている。

 四月二日に、闘争は始まった。最初は少数でおだやかに、次第に盛り上がり、劇的に展開するように仕向けられた。小グループがデパートやドラッグ・ストアで坐り込みを続けた。彼らは、まず出てゆけといわれ、それを拒絶すると、「警告にもかかわらず不法侵入した」かどで、市条令をもって逮捕された。

 大衆集会は、公民権運動のすぐれた活動家たちによって組み立てられた、ある一定の型に沿って運営された。閉会近くに、非暴力部隊への参加希望者をつのった。報復することなく暴力を受け入れ耐え忍ぶことができると確信できる者に限る。武器のかわりになるものさえ、身につけてはならない。われわれは正しいのだという確信を抱くことが、もっとも強力な武器である。

 暴力による挑発に備えるための訓練として、ドラマを演じた。警官らが浴びせる暴言や侮蔑などに、非暴力的に対応すること、憎悪に憎悪を返さず、打ちのめされても打ち返さない、という実演である。

 身体を張る以外にも、多くの役割分担があった。使い走り、自家用車の提供とその運転、希望参加者への食事の用意、電話をかけること、電話のとりつぎ、謄写印刷、タイプ打ち、プラカードづくり、リーフレットの配布。各人がそれぞれの持場で全力を尽くす。それらの総合が非暴力闘争なのである。

 デモンストレーションが強化され、不買ボイコットがめざましい効果をあげた。教会への〈祈り込み〉、図書館への〈坐り込み〉、選挙権登録運動の開始を示すための郡庁へのデモ行進などのキャンペーンを展開した。

 市当局が、活動中止を指令する禁止命令を裁判所からださせたが、不服従の態度をとった。

 闘争の盛り上がりの中で、キングは逮捕され、八日間を獄中で過ごした。知らせは大統領府に達し、J・F・ケネディが介入することになる。

 獄中からのキングの書簡から、次の箇所を引用する。これは、非暴力闘争があくまでも手段であり、目的は話し合いによる解決であることを示唆したものである。

 「実に、話し合いこそが直接行動の目的とするところなのです。非暴力直接行動のねらいは、話し合いを絶えず拒んできた地域社会に、どうでも争点と対決せざるをえないような危機感と緊張をつくりだそうとするものです。」

 自らの正しさを伝える「言葉の力」を磨くことが大切である。明晰な論理を組み合わせて、自らの思想を鮮明に表現する訓練が必要である。

 

 市長のブル・コナーは、非暴力のみせかけをかなぐり捨てた。その結果、彼の醜悪さがアメリカ全土に、世界じゅうに知れわたった。はいつくばった婦人たち、警棒をふりかざす警官、子どもたちに牙をむく警察犬、子どもたちをなぎ倒す高圧消火ホース……。

 しかし、やり返すこともせず、退却もしなかった。訓練を受けなかった見物人は、石やビンを投げることもあったが、デモ隊は非暴力を守り続けた。その決意と勇気が、国じゅうの善良なアメリカ人の心をゆさぶった。

 弾圧にひるむことのない黒人たちに、コナーの部下でさえおびえたことがあった。彼らはまるで催眠術にかかったかのようにあとずさりし、手にしたホースはだらしなく垂れたままだった。数百人の黒人たちは、妨害にあうことなく行進し、予言どおりのお祈りと集会をやりおおせた。

 ついに交渉となり、休戦が実現した。闘争は勝利し、八月のワシントン大行進につながる。そして、公民権法が成立する。

 しかし、言うまでもなく、非暴力は万能ではない。ブラック・パンサーによる武装闘争が始まり、黒人暴動の「暑い夏」が訪れる。苦悩の中でキングはベトナム反戦運動に関わり、体制への反抗の度合いを高め、そして暗殺される。

 私は、非暴力に未来を切り開く可能性をみようと願う者の一人である。だからこそ、その限界から目をそらせてはならないと考える。

 「私には夢がある」とキングは言った。いかに実践が困難であろうと、「非暴力」という理想にかけた夢を、私たちは捨ててはならない、そして、G・シャープが言うように、重要なことは、「非暴力的行動というこの政治技術の本質とそれが秘める潜在的可能性とについて、周到な調査と研究の活動をいま直ちに開始することである。」

(ふるさわ のぶよし。日蓮宗僧侶。自衛官と連帯し習志野基地を解体する会)