(ニュース50号 98/10/01)


市民中心の世界を創るために

久 野 収

聞き手・事務局 田守順子

 

近代における死の日常化

―「殺すな!」はベトナム反戦運動のときからの基本テーマですが、現在も世界各地で民族紛争と呼ばれる戦争やテロが依然として続いています。私たちの身近でも、見殺しにされる阪神淡路大震災の被災者たち、村山政権下で再開された定期的な死刑執行、地域社会を恐怖に陥れた無差別殺人事件など。改めて「殺すな!」を世界に訴えたいと思っているのです。

久野 人を殺すといっても、昔は人間関係の行き違いや怨恨によって、生身の人間が生身の人間を殺すわけですから、自ずから人間の肉体力の限界がありました。いかなる勇士といえども、何十人も何百人も相手にしては、殺す方の身が持ちませんからね。それが近代に入って、戦争が機械化され大量殺人が行われるようになった。あるいは大都市化の中で、古い言葉だけれど汽車とか、電車の事故で、桜木町事件(編注・一九五一年、横浜の桜木町駅で国電火災により一○七人が焼死した)のように何百人の、それも自分に何の責任もない無辜の人びとが大量に殺されるようになった。

しかし八十八歳の今日まで生きてきて、ぼくが一番強く感じたのはやはり戦争による死の日常化現象ですね。特に日本では出征の時は旗を立てて送り出し、死者は名誉の戦死者として隣近所を挙げて称えられる。死を称えれば称えるほど、駆り立てられて大量死が発生しますから、非常や非凡であるはずの死が日常化し平凡化し、死が誰もがいぶからない現象になったのは、特に戦争の影響が大きいと思います。

そうした中で、ぼくのように生死の問題をあまり戦争に結びつけず、ひっそりと生活をして周りにあまり同調しない人間は、変わり者とか、非国民であるとして、肩身の狭い生き方に差別される。まあ日本人がいかんのは、自分のことを自分でやるのはいいんだが、それに同調しない人びとにも自分と同じ生き方を要求する。困ったことに、日本の場合は駆り立てる人びとも、大部分は、自分も死ねと言われれば死ぬつもりだったから、意見の同じでない人間に対しても、日本国民や天皇の臣民としての愛国心を熱心に説いて回り、それが日本国民全体に過激なナショナリズムを広げていった。ぼくのような生き方をする者は、いかがわしい変わった存在として、いぶかしい目や憎悪の目をもって見られた。

当時(編注・一九三○年代)、ブルックス・エメニーの『国際資源論』という本が中央公論社から翻訳され、ひっそりと出版されたんですが、卷末の図表に、米国と日本の鉄鋼生産額が十対一の比だ、と出ているわけです。東条首相は、清水の舞台を飛び降りる覚悟とか言うんだが(笑い)、それ一つを見るだけでも、愚かと言うか、狂信と言うか、そんな精神力が通用する世界ではないことは、今の人ならだれでも分かることなのですがね。

個人主義者と集団主義者

―子どもが信じるのは仕方ないと思うけれど、自分の判断を持てるはずの大人たちまで不敗の神国を信じていった。オウム真理教の事件がありましたが、戦前・戦中の日本人全体も、オウムの信者と同様に洗脳されていたんだと。

久野 ぼくの親友の丸山真男君が当時、自分までも含めて、戦争中の日本人全体が何程かオウム的なものにからめ取られていたのではないか、いま、オウムの信者を狂人扱いしているが、日本人の過去から見ると、日本人全体がそういうものに感染する危険が大きくあると、洩らしていたらしい。

ぼくは昔から、いい意味でも悪い意味でも、個人主義者です。しかし、日本には個人主義者というのは殆んどいないんです。みんな、いい意味でも悪い意味でも、根っからの集団主義者なのです。家族主義者、官僚のような仲間主義者、会社主義者、常に仲間で何かをする、一人でいるという生き方ができない。ぼくは二十数年前に伊豆の伊東に来て夫婦二人で、過ごしていますが、ここに訪ねてくる人びとはみんな「よくこんな離れた場所に居られますね、寂しくありませんか。東京に始終出なければいけないでしょう」と言うんです。「いや、寂しいと思ったことは一度もありませんよ」と言うと、不思議な人を見るような目つきになります。

どうもわが日本では、家族から出発する家族民主主義や、国家が創り出す国家民主主義、あるいは隣近所の仲間の隣近所民主主義であったりして、どれだけささやかであっても、一人ひとりが世界に向かって目を開き、世界に対して責任を持ち、世界全体の人びとに一人ひとりが同じように責任を持つような行動がなかなかできにくい。民主的な組織を作っても、それが良くなれば良くなるほど、だんだん内部結束だけが強まって来る。

「ベ平連」のような個人個人を単位として重んじるあれだけ立派な団体でも、やっぱりインナーキャビネットみたいのができて、吉川(勇一)君も、インナーキャビネットと言われて困ったと自分で書いてるでしょう。インナーキャビネットを作らないと、仕事が出来ないから作るけれど、一旦作ると今度は交代するという慣行がなかなかできないんですよ、日本では。でも、福富(節男)君のような本当の素人だけれど、ものすごく善意の人が「ベ平連」に入ってきて、吉川君のような玄人と一緒に「ベ平連」の活動の中心を担っていった。そういうことで、「ベ平連」は続いていったんですね。

他方で、ぼくは無責任参加者と呼んでいるんだが、自分が好きなときに参加して、人に文句を言わない代わりに、自分も全然責任を感じないような、野次馬とまでもいかないにしても、来たと思ったらすぐどこかへ行ってしまうような、どこかに行ったかと思うと、また返って来るような人たちがたくさん、来て、それが「ベ平連」の新しさだったわけですよ。必ずしも悪い意味ではなく、自分に責任を感じないかわりに、他人に対しても責任の無理押しをしないような徹底的な個人主義者、群集といっても、ロンリークラウズというか、孤独な群集としてしかの経験がなくて、何か意志をもった集団行動をしたことのない人びとがたくさん出てきた。ぼくが安保反対運動から始まって、いろいろの市民運動にいる、そういう人たちと一緒に行動してきて、そういう人びとを運動から立ち去らせた一番の理由は、大学生から始まるセクトの殺し合いに至る内ゲバだったと思いますよ。ぼくは、代々木(共産党)も応援するけれども、「革マル」や「中核」とも決して悪い関係ではないんです。しかし、やっぱり代々木も含めて、セクト化した組織はいけませんね。

変わる子どもの世界

それから、今の親の世代もまずいと、ぼくは思いますよ。親父たちは、経済高度成長の中で、会社のポストが上がっていき、良心的分子も、役職につくわけです。そうすると、もう忙しくなって、最初はぼくたちのうちに始終来ていた節を曲げない人びとたちも、だんだん来なくなってしまって、別世界に行ってしまう。またお母さんたちは、自分の子どもをいわゆるいい学校にやろうと教育ママになり、親父は会社パパになる。ぼくらの子ども時代は、田舎で親父やおふくろは自分の受け持つ仕事に忙しいから、子どもは大人の世界とは別の、子どもだけの世界をもっていて、自分たちだけの世界で遊んだり、勉強したりして過ごしてきたんです。みんな着物でしたから、簡単に脱いで、男も女もみんな丸裸で走り回るんですね。生水は飲むし、おなかが減ると、そこらのものを手当たり次第食べますから、経口伝染病にはすぐかかりましたけれどね。都会の両親の下で育ち、早くから塾やら何やらに通って、いい学校に行こうとして努力している人たちが、また親父とおふくろになっていく……。ぼくにはよく分からんのですよ……。神戸事件とか、毒殺事件とかね、目の前で事件が起こっていることは分かるんだけれど。まことしやかと言うとおかしいが、新聞などで意見を発表している人びとの意見を見ても、どうも違うんじゃないかと、いうふうに感じるんですね。

魅力を失ったオピニオンリーダー

―私たちは日米安保ではなくて日米平和友好条約の締結を提案しているんですが、先般の参議院選挙でも、安保や新ガイドラインはほとんど争点になっていません。

久野 社会全体を改革し、自分もそれによって惰性を変えるんだという姿勢が、全世界的になくなってきましたよね。現在に満足しているわけでもないけれど、がんばっても先は知れてるという思想とかライフスタイルが、全体を支配している。他方で、それに対して異議申立てをしてた超民族主義者や第三世界の人びとの間では、当事者でない周囲の普通の人たちをもまき込んで爆弾闘争をやったり、それに対する残忍な報復を政府筋がやったりしている。生命に対して何の配慮も認められない、戦争末期のような暴力対暴力の構造になってきている。

暴力というのは、時間をすごく短く切れば、成功するように見えるけれども。一九五二年にエジプトのナセルが軍事クーデターを行った時に、日本の左翼は全部ナセルを支持したんだが、軍人本位の政治は、日本のファシズムに非常に近いものになるから、できるだけ市民社会に立脚した形でやらなければいかんと、ぼくは主張したんです。ぼくは戦前からずっとそういう立場をとっていたんで、あまり人から軽蔑は受けなかったけれども、他の人びとが久野の言うことに同調して非暴力で行こうなんて言うと、若いくせに腰抜けだの、なんのと、特に代々木や左翼の側から、そういう批判があったことは確かですね。やっぱり日本の左翼は感傷的な左翼が多いから(笑い)、まあ悪くはないんだけれども、そういう立場の主張を、卑怯者とか腰抜けの主張だと。日本の市民運動にとって決定的だったのは、そういった左翼のセクト間の暴力的内部対立や独善的な批判の応酬によって、日本の学生運動が破滅したということです。で、学生たちが行く道を見失った。

そうしたときに、行く道を新たに展開すべきはずの丸山君やぼくにしても、あるいは小田(実)君や鶴見(俊輔)君たちから、あなた方に至るまでが、だんだん魅力を失ってきている。ぼくらの仲間で言えば、五木寛之みたいなニヒリズムで、既成右翼や権力者の味方は決してしないけれど、そう簡単に左翼一辺倒のセンチメンタルジャーニーはやらんぞ、というライフスタイルとしての自己の軸を持たないような個人が、非常に増えているように思うんです。その人たちが、運動の起点としての自分をもう一度選択するようなところへ、どうすれば出て行くのか。あるいは、量が支配している享楽主義というか、ささやかな楽天主義の現代社会において、量を越えるような新しい質を如何に作り出すか、あるいは量を新しい質にするようなライフスタイルをどのように作り出すかというのは、大変難しいが……、しかし大変やりがいのある問題だと思うんですけれどね……(遠くを眺めてしばらく物思いにふけるように)。

市民運動は愉快を旨として

―『ニュース』第49号に吉川さんが書いている「非暴力と非合法」の中に、アメリカ大使館の前で久野さんが座り込んだ話が出てきましたが。

久野 かつて有楽町の街頭で鶴見君や高畠(通敏)君らとベトナム反戦運動のビラ撒きや街頭募金や座りこみをしていた時、右翼の赤尾敏グループが数寄屋橋に現れてきて、ぼくは赤尾の社会主義時代を知ってるから、彼はぼくの顔を見て、何だこいつ、まだやっとるのかという顔をして、それから「こういうところで交通の邪魔をしている連中を丸の内警察は何故捕まえに来ないんだ!」と騒ぎまわるんですね。それでぼくは、要人に対する個人テロはやるが、右翼はこういう集団には襲撃しないんだな、とへんな自信を得たんです。それでみんなに呼びかけて……。丸山君や永六輔君も街頭に立ちましたよ。永六輔君は寺の出身だから、カンパしている人に、ひとりひとり最敬礼して誠実に頭を下げるんですよ。びっくりしましたねえ。後で聞いたら、「いや、ぼくはカンパを御布施だと思っているから。寺のお坊さんが御布施を貰うときは、もう平身低頭するんです」と言ってました(笑い)。ぼくに勧められて初めて街頭に立った丸山君もそれに倣って、カンパを入れる人にえらい最敬礼していましたよ(笑い)。そういう意味で、街頭行動とか、座り込みというのは、いろいろな点で、スリルと、まあ若干市民的な冒険主義みたいなものがあって、そういう市民運動の持つ面白さといったら不見識かもしれないけれど、愉快そうなライフスタイルというか、姿勢が新しく創り出されなければいけないと思います。「ねばならぬ」の運動では途中で必ず無理をしますから。悲壮なる闘いだけではどうもうまくいかないのではないかという気がします。でも、運動を楽しむような人びとがかなり増えてきた。小田君の言葉で言うと「一生もの」ですね。「一生もの」(笑い)としての市民運動が増えてきた。

「市民の意見30の会」に期待するもの

―「ベ平連」はベトナム戦争が終わって終わりにできたんですが、「市民の意見30の会」というのは終わりにできないんですよね。

久野 アメリカの市民運動の人びとも、第一次世界大戦が終わった後から、ずっと続いてやっています。「市民の意見30の会」なども、担い手は変わりますけれど、これからの運動の新しいモデルになるのではないですか。従来、自分の世界観や自分の政策だけが一番いいと信じて、他人に押しつけるような、政党党派による弊害が、保守派から左翼に至るまであって、それについていけない人びとが、全面的には協力できなくても、応分の寄付をしたり、時々現れたりするような、「市民の意見30の会」に行くことが大変でないような、そういう団体であって欲しいと思うんです。

世界的に見ても、市民中心の世界を、国家中心の世界に対してどう新しく創るかが、我々の将来を左右する問題です。日本における市民運動がただの運動ではなくて、市民中心の世界を創り出すうえで、ささやかな寄与ができるような、そういう生き方の問題としての運動を、小田君の言う「言い出しべえ」で、自分がすることを考え出した以上、ささやかであれまず自分が実行しようという運動、特にこれからの若い人びとに多様な仕方で参加してもらうことをぼくは希望しています。

参加する意欲を若い人が起こすような魅力を、どのようにして生み出すか、という問題がまだ未解決ですね。それはまず、思想の持ち方、感じ方の魅力、人間の魅力、それから運動スタイルの魅力、と三つありますね。運動の持っている思想の魅力をどのように高めるか。魅力ある人間をどう作るか。それから運動のスタイルの魅力をどう創り出すか。それが決め手だと思います。とりわけ、運動のスタイルの魅力を創るのが難しいけれども、やりがいのある仕事ですね。人間のやることは全部、試行錯誤でしょう。経験とか、学習による教育とか、というのは、我々の行動では、それほど大した意味はなくても、やはり新しい経験に直面して、新しい方法を作り出していくんだ、という姿勢が大切です。お互いに元気を出してやりたいと思いますね。

(くの おさむ・哲学者)

(まとめ・事務局 野沢 真)

 

久野 収さんのこと

 

 玄関のドアをあけると久野さんが…… 横には雑誌の山が壁になっていた。すり抜けて二階の書斎へ。あっ、明窓浄机。行儀良く積まれた本の前に坐り、さて、とその時。「こんな時刻(午後二時)は迷惑だった」とおっしゃる。夜型の方のリズムを乱してしまったわけで恐縮した。

 久野収さん―一九一○年生まれで、今年八十八歳。岩波書店から「対談集」を刊行中だ。十数年ぶりにお会いしたのだけれど、以前と変わらずお元気で、関西風の抑揚の残る語り口がなつかしかった。

 インタビューのあと「コーヒーを飲みに行きましょう」。で、おつれあいのよし子さんも一緒に喫茶店へ。さらに別の場所へ。話題は多岐にわたり尽きない。夜を徹して久野さんの話を聞く会、でもよかったかな、と思ってしまう。本紙は稿料なしで、インタビューの謝礼もない。逆に、「会費が……」とおっしゃるのでいただいてきた。

(田守順子)

※久野 収さんは1999年2月9日に逝去なさいました。このインタビューで語られた市民運動への熱い思いを、少しでも引き継いでいくために微力ながら精一杯の活動を続けていきたいと思います。